ねこみなと鉄道前史

第四章 なのはな軽便鉄道

 汽車が上野の停車場についた時は、夜になっていました。

 ゼンジロウは東京に知り合いなどおりませんし、宿屋に泊まるお金ももったいないと思っておりましたので、多少心苦しさを感じはしたのですが、あにさんのリンタロウの家へと行くことにしました。

 リンタロウは突然の弟の訪問に驚きましたが、快くゼンジロウを家の中に入れてくれました。

「なるほど。ねこたとねこみなとの間にガソリンカーを走らせようというのか」

「ええ、最初はおっかさんにおいしい魚をさし上げるために、とそれだけ考えていました。ですが、今ではおっかさんだけでなく他のみんなのためにもなると思って、仕事を続けております」

 リンタロウは弟の顔を覗き込みながら、うんうんと頷きます。

「幸い、わたしのところに軍隊が習志野で訓練用の鉄道を引いた時の帳簿がある。軍隊の上の方から他の人に見せてはいけない、と言われてはいないから、これの写しをお前にあげよう。ねこみなとに鉄道を引く時、いくらぐらいかかるかの参考になるだろう」

「ありがとうございますあにさん」

「いや礼を言いたいのはわたしの方だ。お前はわたしに代わってよくおっかさんに仕えてくれている。ありがたすぎてお前のいる方に足を向けては寝られないよ」

 そう言うあにさんに、ゼンジロウはちょっとおどけて言いました。

「そうです。わたしのいる方に足を向けてはいけませんよ。わたしはともかく、あにさんの家から見て同じ方向には、おっかさんがいらっしゃるのですからね」

 ふたりは顔を見合わせて、はっはっは、と笑いました。

 翌朝、ゼンジロウが出かけようとする時に、あにさんが言いました。

「お前が人のために働いてくれているのは、わたしにはよくわかった。でもね、ゼンジロウ、たまには、ほんのすこしでいいから、お前はお前のためだけに何かをして欲しい、とわたしは思うのだよ」

 ゼンジロウはきょとんとしておりましたが、あにさんの言うことですから「ご心配ありがとうございます」と頭を下げました。

 リンタロウはそんなゼンジロウをしばらく見つめておりました。やがてゼンジロウが手を振りながら去っていき、その姿が見えなくなると、かすかに下を向いてふっと息を漏らしたのです。

「わたしの言ったことをわかっていないようだったな、ゼンジロウは」

 あにさんの家を出たゼンジロウは、両国までてくてくと歩いていきました。

 そして両国まで行くと、今度は千葉に行く汽車に乗り込みます。

 やがて汽車は習志野にさしかかりました。窓の外、遠くに練兵場が見えます。

「ああ、あそこにあにさんが言っていた軍隊の鉄道が引かれているのだな」

 ゼンジロウは目を凝らしてそれを眺めようとしました。しかし、窓の外には立木が生い茂っていて、その向こうはなかなか見えません。

「見えないか。では、後で本を読んでどういう鉄道なのか調べておこう」

 ゼンジロウはそう言うと二等客車の固い椅子に腰を下ろしました。

 ゼンジロウが先にこの鉄道に関する本を読んでいれば、そこにあるのはレールの幅が60センチの小さな線路だった、ということがわかったでしょう。

 ねこたの村やねこ市を通じて上野に通じる鉄道や、今ゼンジロウが乗っている両国から千葉に向かっている鉄道などと比べると、レールの幅はかなり狭いものでした。

 ただしその分、線路を引くためのお金は少なくてすむようになっていました。

 ゼンジロウが千葉行きの汽車に乗ったのは、実際にガソリンカーが走っている鉄道を見学するためでした。

 汽車が千葉につくと、ゼンジロウは今度は南行きの別の汽車に乗り換えます。

 やがてその汽車は、ねこがさきの停車場に到着しました。

 遠くに海が見える、広い野原の真ん中にある停車場です。全体の感じは、ねこたの村の停車場に似ていました。

 ただ違うのは、さほど大きくもない停車場の建物の隣に、もうひとつさらに小さい建物があったところでした。建物には看板がついています。

「なのはな軽便鉄道ねこがさき驛」

 看板にはそう書いてありました。

 ゼンジロウは窓口に顔を寄せ、「終点までいただけますか」と声をかけました。

 中で切符を売っていたのは、小柄な女のねこでした。かなり若いむすめです。

「はい終点までですね」

 鈴を振るような声でゼンジロウにそう言うと、むすめは棚から切符を取って、ゼンジロウに渡してくれました。

「この切符は、いい匂いがしますね」

「ええそうです。菜の花の汁を取っておいて、ほんの少しですが切符を作る紙に混ぜるのです。この季節しかできないことですけどね」

「この土地は菜の花が名物なのですか」

「はい、お客さんは、菜の花を見物しにきたのではないのですか?」

 むすめはちょっと不思議そうな顔をして、ゼンジロウを見つめました。ゼンジロウは、思わず顔をそむけてしまいました。

「……失礼、わたしはここでガソリンカーが使われているということを聞いて、見学に来たのです」

「まあそれはそれは。では駅長を紹介しましょうか」

 ゼンジロウは黙ってこくりと首を縦に振りました。

 むすめはこのねこがさきの駅の駅長さんの娘でした。駅長は遠くからやってきたゼンジロウを歓迎し、ガソリンカーが出る時間まで、熱心になのはな軽便鉄道のあらましについて説明をしてくれました。

「ありがとうございます。では、ガソリンカーに乗らせていただきます」

 発車の時間になったので、ゼンジロウは深々と駅長さんにお辞儀をすると、ガソリンカーに乗り込みました。

 発動機がからからと音を立て、ガソリンカーが走り始めます。

「なるほど汽車と違って、最初にがったんと動き始めるわけではないのだな」

 乗り心地は、町中を走る電車に似ていました。

 ゼンジロウは立ち上がって、運転台の近くへ行きました。

 運転台と客室は扉で隔てられています。扉の上の方には、ガラスがはめられていました。

ですが、ガラスの向こう側に布が張られていて、運転席がよく見えないようになっています。

「お客さんに覗きこまれたら運転手さんの気が散るだろうからな。これはこれで仕方のないことだろう」

 ゼンジロウは正直なところもっとしっかり運転席を見ておきたかったのですが、運転手さんの迷惑になりそうなことは慎むことにしました。

 ガソリンカーは、丘の上に引かれた線路を走ります。

 思っていた以上に、軽やかに走る乗り物でした。走っているうちに、ゼンジロウはすっかりうれしくなってしまいました。

「なんて便利で、なんて楽しい乗り物だろうか」

 窓を開けると、そこから春の風がガソリンカーの中いっぱいに入り込んできます。

 やわらかく、あたたかく、いい匂いのする風です。

 ゼンジロウは仔ねこのようにガソリンカーの中をあちこちと調べまわり、窓を開けては外の景色を眺めました。

 お客さんが多かったら、ちょっと迷惑だったでしょう。

 ですがこの便には、お客さんはほとんど乗っていませんでした。この路線は山の野菜と海の魚を運ぶ朝の便はお客でいっぱいになるけれど、その他の時間は空いているのです。ゼンジロウはこのことを事前にねこがさきの駅長さんに聞いていました。

 ほんの少しだけ乗っていた他のお客さんも、途中の停車場で降りてしまい、終点に到着した時には、ゼンジロウひとりしかガソリンカーには乗っていませんでした。

 外はもう暗くなっていました。でも寒くはありません。

 終点の停車場は、土を盛り上げた粗末なプラットフォームと、小さな小屋のような建物があるだけでした。駅員はいません。

 ガソリンカーの運転手が降りてきて、ゼンジロウに「切符を渡してください」と言いました。どうやら、運転手が駅員のかわりをつとめるようです。

 ゼンジロウは切符を渡し、改札口から外に出ました。

 外には何もありません。野っ原です。一面に、菜の花が咲いていました。

 地面に黄色くじゅうたんのように敷き詰められた菜の花たちの向こうに、ぽつり、ぽつりと灯りが見えます。それは、このあたりに住むねこたちの家なのでしょう。

 宿屋は、なさそうです。

ゼンジロウがほうけたように菜の花を眺めていると、背後でぷおんという音が鳴りました。ねこがさきに戻るガソリンカーの汽笛です。

 やがてガソリンカーは軽やかな音を立て、丘のむこうに消えていきました。

 菜の花ばたけは、静かになりました。

 ゼンジロウはやわらかく温かい夜の空気の中を、しばらく泳ぐように歩きます。

 気分がよいので、このまま適当なところで寝てしまおう。ゼンジロウはそう思いました。あたたかいから風邪をひいてしまうこともないだろう、と。ねこには毛皮がありますから、人よりもずっと容易に野宿ができるのです。

 菜の花ばたけの一角に、ちょうど大人のねこの背丈と背の幅ぐらいに、菜の花が咲いていない場所が見つかりました。ゼンジロウは、そこでごろりと横になり、天を仰ぎます。

 空に星がまたたいていました。

 ゼンジロウは、じっと空を見つめます。見ているうちに、だんだんと自分が星空に吸い込まれていくような気分になってきました。知らず、ゼンジロウの目から涙がこぼれます。

 この星空を、ゼンジロウは心底うつくしいと思いました。

 ですがこの菜の花ばたけは、ゼンジロウが生まれついた場所からは遠く離れたところにあります。普通なら、ゼンジロウはこの場所もこの場所から見られる星空も知らずにねことしてのいのちを終えたことでしょう。

 しかし今、ゼンジロウはここにいて、この星空を見つめているのです。

(汽車があるから、ここまで来れたのだ)

 ゼンジロウはそう思いました。このすばらしい思いをゼンジロウに味あわせてくれたのは、実に汽車とガソリンカーという発明品だったのです。

「わたしはやはりねこみなとに鉄道を引かなければならない」

 ゼンジロウはそうつぶやくと、目を閉じました。