ねこみなと鉄道前史

序章 漁師ねこのゼンジロウ

 これは、いまから百年以上も前のねこの世界のお話です。

 この世界には、ねこみなとという漁師町がありました。

 毎朝、まだ日が昇る前に漁師たちの操るたくさんの船が、沖へと漕ぎだしていきます。そして日が昇ってしばらくすると、船いっぱいにとれたての魚を満載して戻ってくるのです。

 ゼンジロウはこのねこみなとで働く、漁師ねこでした。

 ゼンジロウはねこみなとの出身ではありません。ねこみなとの漁港の南から海に注いでいるなこ川を渡り、西に三里ばかり行ったところにあるねこ市の出身でした。

 実をいうと、ゼンジロウだけではなく、ねこみなとで働く漁師ねこはその大部分が、他の町の生まれだったのです。

 どうしてですかって? そりゃああなた。ねこは水に入るのが大嫌いじゃないですか。

 水が嫌いなねこたちですが、魚は食べたい。今まで食べたことのないような新しい種類の魚も食べてみたい。だから町に住むねこの中で特に勇気のあるものが、海の近くへとやってきて、漁師ねこになるのです。

 ただ漁師ねことして働いていられるのは、気力体力が張っている時だけです。年を取って潮風で毛が擦り切れるようになると、ねこたちは生まれ育った町へと戻り、海がいかに素晴らしいものであったかをその年生まれたばかりの仔ねこに話して聞かせるようになるのでした。この年老いた漁師ねこから海の話を聞いて育った仔ねこたちの幾人かが、大人になってからねこみなとへと出て行き、次の代の漁師ねこになるのです。

 とはいえゼンジロウの場合は、こうした冒険好きの仔ねこたちとは事情がちょっと違っていました。

 ゼンジロウには年老いたおっかさんがおります。

 小さい頃から、暇さえあればゼンジロウの毛皮をきれいに舐めてくれたやさしいおっかさんでした。

 ただゼンジロウが生まれた年飢饉があり、食べるものがほとんどなくなってしまっているのにゼンジロウにお乳をあげつづけたため、おっかさんはやせ細ってもう子供を産めない身体になってしまったのでありました。

 ゼンジロウと一緒に生まれた兄弟たちは、この飢饉でみんな死んでしまいました。普通ねこはたくさんの兄弟を持っているものですが、ゼンジロウの兄弟はというと、ゼンジロウより一年前に生まれたリンタロウしか残っていなかったのです。

 リンタロウは非常に頭のよいねこで、大きくなると軍人の学校に入り、都会に出て出世をしました。

 軍人の学校に入ったのは、別にいくさが好きであったためではありません。他の学校がみなたいそうな月謝を取るこの時代、貧乏人の子をただで学ばせてくれるのは、軍人の学校以外になかったためです。

 リンタロウは学校を出た後、軍隊の主計局というところに入りました。お仕事の内容は戦場で勇ましく戦うことではなく、事務室にこもって朝から晩まで帳簿を睨みつつ計算をし続けることだったのです。

 リンタロウは根が非常に真面目なねこでしたから、脇目もふらずにこのお仕事に打ち込みました。その結果最後には主計中将というたいそうな位を授かることになるのですが、そのおかげでおっかさんはねこ市でゼンジロウとただふたりきりで暮らすことになってしまったのです。

「わたしは頭が悪くてよかった、と思ってますおっかさん」

 ゼンジロウは夜、おっかさんと囲炉裏を囲みながらよくこう言いました。

「遠く離れて親孝行もできないぐらいなら、頭など悪くていいんです」

 とは言うものの、ゼンジロウは言うほど頭の悪いねこではありませんでした。学校の成績はリンタロウには及びませんが、賢いねこであるということはその目を見ればすぐにわかります。

 ゼンジロウが自分のことを「頭が悪い」というのはいい学校に通えなかったからで、それは成績が足りなかったからではなくおっかさんに心配をかけまいとわざと試験をあきらめたためでした。

 また、ゼンジロウとリンタロウの兄弟仲もさほど悪くはありませんでした。ああは言うもののゼンジロウは頭がよいと評判のあにさんを尊敬していましたし、軍隊の中で出世していくあにさんを誇らしくも思っていたからです。

「あにさんはあれでいいんだ。その分わたしがおっかさんについていていれば」

 ゼンジロウはそうして、おっかさんにかいがいしく仕えていたのです。

 その親孝行のゼンジロウが、おっかさんをひとりねこ市に置いてねこみなとで漁師になったのには、理由があります。

 おっかさんの身体がますます弱くなり、このままではあと数年で枯れ木のようにやせ衰えて死んでしまうだろうとお医者に言われたのです。

「滋養のあるものを食べさせれば、よくなるんだけどねえ」

 気の毒そうにお医者のねこはゼンジロウに告げました。

 ねこが大好きで、滋養のある食べ物といったら、魚に決まっています。

「新鮮であればあるほどよろしい」

 そのことを聞いたゼンジロウは悩みました。新鮮な魚を手に入れるには、ねこみなとの町に行かなければなりません。

 ですが海からの潮風は身体の毒です。おっかさんはいまよりもずっと調子を悪くしてしまうでしょう。住み慣れたねこ市にいて、新鮮な魚を運んでやるのが身体のためには一番いいのです。

「しかしそれではおっかさんはひとりで暮らすことになってしまう」

 おっかさんの身体が弱くなってしまったのは、飢饉の年に自分にお乳を与えてくれたせいだ、とゼンジロウは思っていました。

 だから自分は生涯おっかさんに仕え、おっかさんに不自由をさせないようにしなければならないのだ、と。

 そのゼンジロウに向かって、ある夜おっかさんは言ったのです。

「お前はわたしの側にいようかねこみなとで漁師になろうかと悩んでいるようですが、わたしはお前が側にいるよりおいしいお魚を食べられた方がいい。だから漁師におなり」と。

 ゼンジロウはちょっと意外に思いましたが、ほかならぬおっかさんの言うことでしたからその通りにねこみなとに行き、漁師になったのです。

 老いて死んでいく自分の側に置くより、外の世界に出てなんぼか自由に生きさせた方が、ゼンジロウ自身のためになるだろうとおっかさんが考え、わざと冷たい言い方をしたのだということを悟るには、まだゼンジロウは若すぎました。

 ともかくこうしてゼンジロウは、ねこみなとで魚を取るようになったのです。

 普通の漁師ねこは、朝魚を浜にあげてしまうと、一番いいところを自分たちのために取り、残りを魚市場に収めます。そして取っておいたおいしい魚を食べてしまうと、日が高くてもそのまま眠ってしまうのでした。

 ですがゼンジロウは違っていました。

 一番おいしいところを取っておくのは他の漁師ねこと同じなのですが、市場に魚を収めた後、売り物にならないような傷んだ魚をもらって帰っていくのです。

 他の漁師ねこは、傷んだ魚を持って帰るのはゼンジロウが欲深かだからだろうとか、いやあいつはなかなか抜け目ないやつで、傷んだ魚を肥料として百姓ねこに売っているのだ、などと噂し合っていました。いずれにしろその噂にはほんのちょっとずつ毒が含まれており、漁師ねこの仲間うちでのゼンジロウの評判は、あまりいいものではなかったのです。

 実のところ、ゼンジロウは傷んだ魚を自分で食べ、漁師ねこの仲間が眠ってしまうのを確かめてから、ねこみなとの町を飛び出し、西に向かって走っていたのです。

 ねこみなとの西には、ねこたの村がありました。

ねこたの村は、軍隊の練兵場があるほかは畑ばかりで何もないところでしたが、鉄道が通っており停車場が置かれていたのです。

 ゼンジロウは停車場から汽車に乗ると、おっかさんのいるねこ市へと急ぎます。

魚は悪くならないように、新聞紙できれいに包んでありました。ゼンジロウは客車の席のある場所には行かず、大事そうにしっかりと魚を抱き、汽車がなこ川を渡ってねこ市の停車場に着くまでデッキに立ちつくしていたのです。

 汽車がねこ市の停車場につくと、ゼンジロウは韋駄天走りでおっかさんのいる家に行き、魚の一番いいところをおっかさんに差し上げるのでした。

「済まないねえ。でもわたしは食が細くなっていきなりこんなに食べられないから、取っておいて後で食べていいかい」

 おっかさんは毎回そう言うと、魚を受け取って奥へと引き上げました。

ゼンジロウはというと、明日の漁のことを考えるとあまり長居もできませんから、魚を置いてきたおっかさんが淹れてくれるお茶を飲むと、またねこ市の停車場に戻り、汽車に乗ってねこみなとへと帰るのでした。

 おっかさんはと言うと、ゼンジロウが帰るとこっそりといい魚を持って魚屋に行き、それを売り払っていました。売ったお金は使ったりせずに、たんすの中にある壺に貯めていたのです。

 たんすの中の壺は、ふたつありました。

 ひとつめの壺には、リンタロウが毎月送ってくる仕送りが、そっくりそのまま入れてありました。

 そしてふたつめの壺には、ゼンジロウが持ってきた魚を売ったお金が入れてあったのです。

無論おっかさんは、貯めたお金を自分のために使おうなどとは思っていませんでした。自分が死んだあと、それぞれの壺のお金を息子たちに返し、それぞれのよいように使ってもらおうと考えていたのでした。